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アーネストコラム「洒洒落落」安藤歯科・ORCインプラント矯正センター 理事長 安藤正実 先生 第3回

  • アーネストコラム「酒酒落落」
  • 2011年5月30日

第3回私の趣味について


幼少のころ私の父親は当時住んでいた市内でまだ数台の車しかなかった時代にアメリカはフォード社製の1963年式のマスタングという車に乗っていました。当時その車に乗せてもらって町の中をドライブするのが小さいときとても自慢だったことを昨日のように思い出します。その後多くのヨーロッパ車(メルセデス、フォルクスワーゲン,bmw)などをのり継いだのち、私が免許を取って初めて運転させてもらったメルセデスも父のお下がりでした。

安藤先生お父様007.jpg


当時、大学の同級生からはベンツに乗っている新入生という偏見めいた見方をされましたが、それはそれ、元来目立ちたがり屋の私にとって向かうところ敵なしという感じでした。しかし免許取り立ての学生にとって少々大きすぎるその車は約1年で退役せねばならないほど壊れてしまい、父が大事にしていたことを思うと今でも父に申し訳なく思ってしまいます。その後まだ日本に於いてBMW が今のように知られる存在になるずっと以前に私の家のガレージに来たブルーのBMW3.0csi(1974)は、現在までメインテナンスを行いながら私の診療所のエントランスに飾られています。ちなみにこの車は当時信じられないくらい速く、空いた第3京浜でいろいろな車と競争しましたがほとんど負け知らずでした。自動車評論家の徳大寺有恒氏もそのころのこの車を絶賛してくれたことを覚えています。
この車は私にとって大変思い出の深い車で、今の家内と初めてドライブしたのもこの車でしたし、結婚式の結納の場にこの車で出かけ途中目黒の交差点でエンストし着物姿の母親に押してもらったことも忘れられません。さらには、家内と行った山中湖でフュ―エルポンプが故障し車の下にもぐって外した部品のオーバーホールをして帰ってきたこともありました。とにかく良く壊れるBMWでした、そのおかげ(そのせい?)で車の構造や仕組みを覚えるきっかけになりました。そして長男が誕生して、当時、彼を連れて良くドライブにも出掛けたある日のことです。中央高速でポルシェと競争になり、伴走した時にエンジンが火を噴きついに廃車寸前となりました。この時から、この車と長く付き合うためには自分でメンテナンスするしかないという思いでイギリスのヘインズ社から出版されている自動車解体新書work shop manual(イギリスではごく普通の家庭でも車の修理は自ら行う人が多いためこのような本が発刊されている)を片手に自らこのエンジンのオーバーホールを行ったのでした。(当時学生のアルバイト代だけではこの車を維持できないための苦肉の策でした)
そして自ら修理したエンジンに初めて火が入った時、そのエンジン音は今でも忘れられないくらいいいものだったことを記憶しています。
この時の経験から、私の旧車のレストア趣味が始まりました。ちなみにそんなこと突然素人の私にできるはずがないと思われる方も多いかと存じますが、実は前述の私の父親がいつも一緒に手伝ってくれたのでした。彼は小さいときから器用でしかも相当に賢い人だったと思います。(息子の欲眼かもしれません)中学生の時自転車に小さなエンジンをつけてバイクのようなものを作り当時の校長先生に売ったそうです。若いころは陸王や、ハーレーにも乗りバイクをこよなく愛し、暫く修理工場にも勤めた経験があったそうです。
そのようなわけで私と父はよくアメリカのmonster garage に出てくる親子のように車のカスタムやレストアを自宅のガレージで行っています。その後Lotus Europa(1974)
Jaguar XKE (1967)などレストアし現在Maserati merak(1974)のProjectに挑んでいます。
これらの車はレストア中のマセラティを除き当院埼玉診療所の1階エントランスに季節ごとに展示しています。絵の好きな先生はよく診療室に絵を飾りますが、私の場合、デザインの好きな車がそれに代わるものなのです。


s-002安藤歯科(プロ)エントランス1契約外ロビー階.jpg

一階エントランスの展示車

自宅のガレージには修理工場並みの設備が今は整っていますので(リフトも付いています)
近隣にお住まいの方の一部は、私のことを自動車屋さんと思っているようです。
現在進行中のレストアの完成はこの秋になりそうですので、もしご興味のある方は是非見にいらしてください。

安藤先生ガレージ006.jpg


自宅ガレージ


安藤歯科インプラントガイドはこちらから
http://www.ando-implant.jp/

アーネストコラム「洒洒落落」安藤歯科・ORCインプラント矯正センター 理事長 安藤正実 先生 第2回

  • アーネストコラム「酒酒落落」
  • 2011年5月10日

私は今から25年前に歯科医師になりました。当時お世話になっていた医局の先輩が新規に純日本製インプラントを開発されたのがきっかけで22年前よりインプラント治療を行うようになりました。当時は各県に2−3医院くらいしかインプラントを取り扱っている医院がないころでしたので、一般の患者様はその存在すらご存じないころからその治療法を経験していました。ところがその当時の日本製のインプラントは相当に粗悪品[今だから言えますが]でしたものですから成功率が50パーセントというようなほとんど人体実験に近いものだったのです。しっかりと骨につかないインプラントが周囲に線維性結合組織に囲まれた状態をfivrointegration(疑似歯根膜などと解釈する]などと呼び肯定する意見もあったくらいです。ちなみにこれは現在における失敗インプラントを意味します。
そのため私はこの治療法についてはまだまだ実用段階ではないと考え、しばらくの間この治療法を封印することとしました。その後スウェーデン製のブローネマルクシステム、やITI インプラントなどのチタン製のインプラントが日本に入ってくるようになり、彼の地でのそれらの治療がすでに確立段階であることを知りながらも、すぐにこの治療法に戻ることができなかったのはこのような理由からなのでした。当時大学においてもたくさんの失敗インプラントの撤去のため訪れる多くの患者様を見た医局員たちは、とても行うべきではない治療法であるという認識をするに十分だったのです。そのため本治療法について大学が一番に遅れてしまったのも無理からぬことなのです。。
当時欠損補綴(入れ歯)はドイツのケルバー先生の開発されたコーヌスクローネ義歯の全盛期でこの治療法も大変に素晴らしかったと記憶しています。(この治療法もすべての歯科医師が行ってはいない方法だったと思いますがなぜか私はこの治療に関して当時関東地方でもトップの症例数を行っているといわれていました)そして約10年にわたってこの治療法を中心に行ってきたのです。


インプラント治療との再会


そして12年前母校の大学で新しい日本製純チタンインプラントを開発しその開発にあたっていくつかのお手伝いをしたのがきっかけでまた再びインプラント治療を始めたのでした。
チタンが骨とつくことを発見したのがスウェーデンのProffesor ingubar branemark
博士なのは業界では有名な話なのですが彼は現在のインプラントの祖と呼ばれており世界中のインプラントロジストから慕われています。現在彼は高齢ながらブラジルにおいて恵まれない人々のために無償で義眼やエピテーゼ(皮膚付きの人口顔面)などの治療を行う施設を世界中の歯科医師からの寄付によって運営しています。
私は現在ブローネマルク先生の開発したシステムであるノーベルバイオケア社のインプラントにおけるインストラクター(同社ではメンターと言います)を行っていますが、インプラント治療に復帰後わずか10年足らずでこのように日本におけるインプラント治療の第一人者と言っていただけるようになったのには実は理由があります。
2004年日本に一人のポルトガル人の歯科医師が来日しました。彼の名はDr.PAULO MALO
と言います。彼の開発したALL On 4システムという方法は従来、片顎8−10本のインプラントを必要とする無歯顎の患者様に4−6本のインプラントを用いてさらに一日で歯を入れるという画期的な方法でした。
私はノーベルバイオケアの招待で彼に会う機会を持つことができ彼の話を聞きたいがため、翌年16時間かけポルトガルの彼のオフィスに行ったのです。その時日本から一緒にポルトガルに行った歯科医師達が現在の日本のインプラント界のコアメンバーとなる人たちだったと知るまでにはさほどの時間が必要ではありませんでした。とにかくマロ先生の医院は世界規模です。スタッフ400名が大きなビルの5フロア(現在20階建てのそのビルすべてが彼の診療所です。)で忙しそうに働いている姿はこんなヨーロッパの僻地でありえない様子だったのです。
現在彼のデンタルオフィスは世界各国に存在し名実ともに世界ナンバー1の歯科医師なのです。私は彼には相当に参っています。というのは彼は学生時代にモデルのアルバイトをしていたくらいのイケ面(私は決してゲイではありません)でしかも相当に頭もいい人です。彼に会ってから今日まで彼は心の師であり、また永遠の目標でもあります。
ちなみにポルトガルですが、バスコダガマがヨーロッパ大陸を発見した太古の昔よりヨーロッパ最西端の地として最も早くから文明が存在した地でもあります。
今は当時の栄枯は衰退してまさに哀愁のヨーロッパという雰囲気がとても素敵なところであります。私はそんな古い街において世界で最も最先端のインプラント治療法に出会う機会に巡り会うことができた幸運に強く導かれながら日本に戻る機上において、あこがれのアーネストの山口氏に頼んで理想の診療室を作る決心をしたのです。


ツーショット002.jpg


Dr,paulo malo とのツーショット


モニュメント003.jpg

一度見てみたかった発見のモニュメントの前で研修の最終日に観光客気分で

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Nobel Biocare Japan(世界1流のインプラントメーカー)前会長ulf nilson氏
トUCLAインプラント科教授Peter moy 先生と一緒に


日本先生005.jpg


日本におけるインプラントの大先輩 ブローネマルクオッセオインテグレションセンター
所長 Club 22会長 小宮山弥太郎 先生とリスボンで


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